まえをむいて。

2009年にロースクール卒業。司法試験受験回数0回。いまから、ここから、はじめます。まえをむいて。

やめてもいいんだよ

法曹への強い憧れを抱きロースクールに入ったが
それまで遠い存在であった弁護士や検事の人間性にふれ、実務の現場をみているうちに、だんだんと弁護士や検事への憧れはなくなっていった。
なんだ…こんな人たちがやっていけて評価される職業なんだ。こんな世界に一生身を置いて生きていくのはいやだな。
大変失礼だかほんの一部いらっしゃった人格的にも能力的にも素晴らしい先生を除き、ロースクールでの法曹の実務家との関わりは わたしの憧れを打ち砕く方向にしか働かなかった。そうか。法律の勉強さえすればなれるんだから、あたりまえだった。ひととなりなんて、よく考えたら法曹になる要件から そもそも外れてた。

さらに、わたしがロースクールに入ったのは出来たての時で まだ第1回の新司法試験が行われる前だった。どのロースクールから新司法試験合格者が何名でるのか、が学校側も生徒側も一番の関心ごとであり、ストレスの元でもあった。

ロースクールの入学式、お祝いの言葉を壇上で述べていた 弁護士だか教授だか学校の偉い人がこんな事を言った。
「いいですか。みなさん。いま、あなたの両隣りにいるひとの顔をよく覚えておいてください。ロースクールを卒業するときには おそらく居なくなっているでしょう。」

…そんなこと、わざわざ入学式に言わなくてよくない!?

とは、当時の私は思えなかった。
「よし。わたしは、ぜったい消えてなるものか!」そんなふうに 強く誓い両手にぐっと力をいれた。


それから数ヶ月後。私のいちばん大切なひとが亡くなった。
ロースクールでは大学と違い、出席日数の規定が異様に厳しく、講義を数日休むだけで単位を落とすことになり、そうなると即留年になる決まりだった。
なので、大切なひとのお葬式を終えてすぐ、新幹線に乗り、自宅にもどり、翌日歯を食いしばってロースクールの授業に出席した。
数日、私が欠席していた理由もすべて知っている その弁護士は、みんながいるクラスの授業中に私の方をちらちらみながらこう言った。
「親が亡くなろうが、なにがあろうが、休むなんて弁護士としては失格。それに、親なんて死んでしまうほうが楽。生きているほうが大変だよ。介護とかいろいろ、大変なんだよね。」と笑いながら。
泣いてたまるか、とじっとこらえた。
でも、もっと堪えたのが、クラスメイトがこのことを機に私が司法試験受験生の候補から いなくなることを内心期待していたということ。ライバル、切磋琢磨ってそうゆうことを言うの…?

その後、卒業までのあいだに
病気でロースクールを去られたかたが数名いらっしゃり、家庭の事情で辞められた方もいた。単位を落として留年となり去っていかれる方もいた。
絶対やめてたまるか。留年してたまるか。負けてたまるか。
私がロースクールにいる理由は そこだけになった。

卒業に必要な最後の単位を認定する試験日の朝。
自宅から最寄駅まで歩く道で、涙が溢れてとまらなくなった。空を見上げ、なんども「きょうまで よくがんばった。よくがんばった…」と自分に語りかけた。






「サンクコスト(埋没費用)」という考え方がある。

サンクコストというのは、過去に投資してきて、もう取り戻せない『費用』のこと。

こどもがやりたいからとはじめた習い事だったが、次第にこどもの興味はなくなってきていて苦痛にすらなっているのに「せっかく ここまで頑張って続けてきたのだから。今やめたらもったいないから。」と無理に続けさせてしまう、という状況。まさにこれがサンクコストに心が縛られている故に生じている現象なのだ。

サンクコストを無視して決めたほうがよいことが、この世の中にはたくさんある。
「せっかく…」「もったいないから…」との思考は、より良い判断を選択を遠ざけてしまいかねない。

私は、ロースクール生活を経て心身ともに疲弊していたし、法曹への憧れも綺麗さっぱりなくなっていたので、このサンクコストを無視した選択をロースクールを卒業すると同時にすんなりとできた。
それから10年近く経つが、その選択に間違いなかった、ほんとうに良かったと素直に思っている。
でも、何事もなく ロースクール生活を送っていたら、もしかすると サンクコストに縛られて 手を伸ばせば手に入れられる幸せに目を背け続ける日々を 今もおくっていたかもしれない。

あの時、あの場所に置いてきた「選択肢」を今わたしは拾いに行く。
ロースクール時代に出会ったほんのひと握りの 素晴らしい法曹の先生方、今は法曹となって活躍しているクラスメイトの姿は ずっと心の中で輝いていて、今の自分の遥かな暗い道のりを 照らしてくれているから。

いま、をいちばん大切に想ってする選択は
たぶん…いや、かならず 「良かった」に辿り着く。
と、わたしは思う。

おやすみ

きょうは長女が学校をおやすみ。
お家でのんびりすごす。
夫も風邪気味で体調が悪い様子。
就寝中の温度管理が難しい。クーラーをつけるのか、窓をあけて風を通して扇風機か。いずれにせよ、わたしは平気。丈夫な身体なのだ。ただ自分基準を家族に適応して過ごさせてしまうと、どうやらみんな風邪をひく。気をつけなければ。


維摩経を解説しているテレビ番組で話していたこと。

「人に迷惑をかけなければ自由という価値観は
美徳でもあるが傲慢でもある

自分というもののバリアを少しおろして
人のお世話になるということも 少しずつ
達者になっていかなければならない」

信頼していたのに思いもよらない形で落胆させられたり、
自分の倫理観では解釈しきれないような行動をするひとや、自分の想いをことごとく裏切るようなひとと関わり、さんざん悩んで振り回されて心が折れたり…そんな経験があったりすると、
自分というもののバリアをおろすことは、とてつもなく覚悟がいるのだけどな。
すこしずつ「trial and error」を重ねて
ひとと継続的に関わること、適度に心を開くことが 上手くなったほうが良いのだろうなぁ…

会社法勉強中。
過失 と 重過失の違いがずっと ぽわわんとしたままだったので、この際 しっかり調べてみる。
ひとつ、ひとつ 理解を明確にしていこう。

蝉が鳴き始めた。ベランダには蚊取り線香
夏はすぐそこ。


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つかれたなぁ。

利害関係のあるひととのコミュニケーションって
ほんとうに難しい。

どこまで自分の本音の情報開示をすべきなのか…
真意を伝えるにはできるだけ多くのことをさらけ出したほうがよいのだろうけれど、
それをすることにより生じるリスクとのバランスを真剣に考えねばならない。口は災いの元なのだ。
人質ならぬ「言葉 質」に自分が発した言葉がとられることを意識しながら細心の注意を払わなければならない。
あぁ。ほんとうに疲れてしまう。

自分だけで完結できる世界に生きられたらなぁと、
本日の自身の言動につき反省点をノートに書き出しながら ぼんやり考える。

良好なお付き合いを続けながら、相手に迎合することなく 自分が大切にしていることは きちんと大切にできる強く聡明な心がほしい。

それにしても今週はものすごく疲れたなあ。まだ終わってないけれど。

だれにもわからない。

どうしようもないくらい不運なことに見舞われたとき
「わかるよ。わかる。僕にも同じ経験があるから。」とか、「私もあなたと同じ〇〇として、心中お察しいたします。」とか言われると、ご心配いただきありがとうございます…と礼儀としての感謝を述べながらも、そっと心の扉をしめて ため息をついてしまう。

起きている客観的な事象としては共通点が数多くあったとしても、それをまさに体験している当事者の心と身体のなかで起きている主観的な事象は個々人でまったく別物なのだから。安易にこちらの心情を、そちらのフィルターや価値観でもって解釈してわかった気になられても困ってしまうのである。

なので、自分も気をつけている。
他者の抱えている想いや悩みを 安易にわかった気にだけはならないように。
でも、当人の真の想いにすこしでも近づくことができたらいいな、という手の届かない希望を持ち続けながら、当人のことを想い考え見つめつづけることをやめないでいたい。
相手を心から想うこと、心配すること、というのは「ひととき」では成せないもので、 あたたかな継続性を伴うものだと思う。


きのうは、夫がどうしてもお好み焼きが食べたいというので 急遽 材料を買いに行く。電車の待ち時間にノートを読んで知識を確認する。
ロースクールでは、パソコンできちんと綺麗なまとめノート作っている方々が多くいらっしゃって、なぜか私にそれをプリントアウトして渡してくださる方もいて、いま手元に残っていたりする。改めて眺めると、これを作るのにすっごい時間かかっただろうなぁ、すごいなぁ、よくまとまっていて作った人はほんと賢いなぁ、と思う。圧倒的に時間がない今の私にはこのようなものを作ることはできないので、
限りなく走り書きで要点を書き出したノートを読み返し新しい知識を自分にとっての常識になるよう落とし込むしかないなぁと思っている。

みんなが幸せ

みんなが心おだやかに幸せに生きることは
どう頑張ってもできないものなのか、と
たまに考えることがある。
昨日もそんなことをぐるぐる考えていた。


いまの刑事司法を変えたい、そんなことを
ロースクール入試のステートメントに書いた。
刑事司法に携わり、被告人の言い分をきちんと聞いたうえでその心と正面から向き合うことで、
内省のきっかけを作り 更生に向かうよう働きかけをする最後の砦の役目を自分が果たしたいと考えていた。
その後、いろいろな現実を目の当たりにし、自分の信念がゆらいだ。生まれ育った環境、いかなる出会いに恵まれるか、が犯罪から人を遠ざける最も重要な要素だと感じるようになった。人を育むことに関心が向かった。
仕事で、自身の子育てで、たくさんの「育み」のまさにその過程にいる「育まれているひと」と「育むひと」を見てきた。
ここでもまた自身の介入できる範囲の限界を感じた。
問題をみつけても、いまのルールでは根本的な解決に至らないのを ただ眺めるしかできないのだろうか。

北風と太陽の話を想う。
強制力をもってではなく、じんわりと穏やかに 事態を良き方向にむかわせる方法はないものだろうか。



昨日は朝から仕事。気楽に働いてきたけれど、信頼関係が築かれていくにつれて増える重責にちょっと疲れた気分になる。

夫が英語の勉強をはじめた。iPhoneのSiriを相手に、英語バージョンに切り替えて 英語で話しかけている様子が微笑ましい。

まったくSiriとの会話が噛み合っていない。笑


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使命を果たす。

朝、何気なくヤフーニュースをのぞいたら

麻央さんの悲しい知らせが書いてあり、

無意識に思考が停止する。


思考を停止させたまま、

淡々と娘を学校に送り、家を片付け、掃除して、

夕食をつくって、母に子どもたちを託し、

仕事に向かう。



仕事を終え、帰宅して、遅めの夕食を食べて、

だれかがつけたテレビに映る麻央さんを見たら

涙が次から次へと 出てきて 止まらなくなった。



生き方、行い、考え、想い…

すべてが清く美しく

優しい使命感に根ざした 命の使い方をなさっていた。


かなしい。

さみしい。





「その命、誰のため、何のために 使うの?」

「私に 何ができる?」

自問自答してみる。



使命感をもって、

自分に与えらた命を

めいいっぱい使いきる生き方を選びたい。

うまくいかない日。


いつもどおり朝5時起床。

よっこらしょ、と身体を起こしたら

ふわふわ くらくら 目眩で倒れこむ。気のせいだ、すぐにおさまる、と自分に言い聞かせるように 這いつくばって リビングまで移動したものの、目眩がおさまらず床の上で力尽きる…しばし床と一体化。


2、3ヶ月に一度 突然こんなふうになって

身体がまったく思うようにならず 悔しくてクゥーっ!(涙)となる。これ、試験当日の朝とかになったらどうしよう…とぼんやり考える。毎回こうなる明確な原因がよくわからない。


夫が慣れない手つきで長女のお弁当を作ってくれた。幼稚園、小学校生活のなかでたぶん始めてのこと。

長女に「これでいい?」とできあがったお弁当の中身をみせて、長女はのぞきこみながら「いいよ♫」と答える。

そっと私も確認してみたら ご飯のうさぎちゃんの形がぽろぽろ崩れていて、お顔も怪獣みたな…すごい形。長女、内心 え?って思ったのだろうに(笑)気を使ってくれたのだなぁと、胸のなかに申し訳なさとあたたかさがじんわり広がる。

主人は出勤時間を遅らせて、長女を送ってくれた。迷惑をかけてしまった。自分が悔やまれる。


きょうは横になりながら、会社法の本を読んだりしている。ロースクール時代は手当たり次第よくわからない概念を覚えたり、とにかく条文をひろって問題をといていたりしたけれど、具体的なイメージをもてていなかったなぁとあらためて感じる。

社会人経験なく勉強だけで会社法をきちんと理解していた同級生の方々をほんとうにすごいなぁと いま思う。みんな頑張ってたんだなぁ…


長女は今日から、プール。

次女はお店やさんごっこ。おもちゃのネックレスを集めている。

この子たちにとって、なにか良きものを与えられる生き方ができるように。自らの生き方をもって背中で語れる母になりたい。


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