0(ぜろ)と100(ひゃく)のあいだ。
まるで一度でも失敗して落ちたら終わり、の
綱渡りをしているような日々だった。
自分は 98点を取っても、
「どうして2点の失点があったのか。
あなたなら100点をとれるはず。」
と言われて育ってきた。
大学受験では、
「仮に受かっても行かないから」という理由で
滑り止めは一切受験せず、
本命一校しか出願も受験もしなかった。
失敗は許されない、失敗したらすべて終わりだ、という考えの中で生きていた。
一度の失敗が命取りになり二度と取り返しはつかない、という思想をもっていた。
出会ってまだ間もないころ。
喧嘩をしたときに夫に言われて、はっとして
いまでもときどき思い出す言葉がある。
「君はほんとうに0か100かだね。」
《司法試験に合格すること》はたぶん
自分の中で長い間持ち続けている目標のひとつで、
いまから約10年前、
その目標から遥か彼方に遠ざかったとき、
それまで司法試験に合格するために
自分が積み重ねてきた時間や努力すべてが「0(ぜろ)」になった。
と思っていたけれど、実は違うことを
今の自分は知っている。
専業主婦をしていたけれど 働いてみようかな、と思い立ち、
いくつかの会社で面接を受けたとき
ロースクール出身でいわゆる三振をした方が面接官だったことがある。もちろん話は弾んだ。ご縁はなかったけれど。
今働いている職場の副社長?(2番目に偉い方)も、
かつて旧司法試験を目指していた方である。
とても優秀で人格的にも素晴らしく尊敬している。
ロースクールに在籍していたころは、
三振なんて恐怖の館の入り口みたいに思っていたし、
その先になにがあるかなんて怖くて考えることすら避けていたけれど、
なんてことはない。
その入り口の前に立たされたときの
絶望感や喪失感、悲しみは到底言葉では表現しきれず書き尽くせないものだけれど、
扉を開けて 涙をふいて、伏せていた視線をふとあげてみると、あっちにも こっちにも
道が放射線状に伸びていてるのである。
もう一度、司法試験を目指す道すらちゃんと足元から伸びている。
大丈夫。たいしたことない。
手元を見てみると「0(ぜろ)」になったはずの
あれやこれやが そっくりそのまま
ちゃんと残っていてくれているではないの。
なんだ…これまで積み重ねてきた時間も努力もなくなりはしないんだ。
30積み重ねてきたのなら、あと70がんばればいい。
60積み重ねてきたのなら、あと40。
90積み重ねてきたのなら、あとちょっと、10がんばる。
何度失敗しても、
ちょっと落としちゃうことがあったとしても、
もう一度そこから、その続きから
清々しくはじめることを 自分も他者も
優しく受け入れてあげられますように、
と いつも ひそかに願っている。
90まで積み重ねてきたひとが、
ちょいと転んでしまったのを見つけると
よってたかって「0(ぜろ)」にしてやろう!
と とことん追い詰めてしまう雰囲気は
とても苦しくていやだなぁ。
お互いに 失敗しても 再びそこから
やり直しができる雰囲気のほうが
うんと幸せだと思うのだけれど。