あきらめる。
「あきらめる」つまり「諦める」。
これは、
「とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。」という意味をもつ。
けれども「あきらめる」にはもうひとつの意味がある。
それは…「明らめる」。
「物事の事情・理由を明らかにする」
「心を明るくする、心を晴らす」というものである。
自分自身、
かつて司法試験から離れる決断をしたとき、
周りのひとたちから「諦めた」との評価を受けた。
辛かった。なによりすごく悔しかった。
自分とは違い司法試験と正面から向き合ったうえで、
離れる決心をした方を幾人か存じ上げている。
また、
ご自身の希望と事実とのあいだにある隔たりと懸命に向き合い、清く受け入れなさる方々を
仕事を通じて 多く見届けてきた。
そのひとり、ひとりの決断を
何も知らないひとたちは 「諦めた」と呼ぶ。
けれども…
「違う。そうではない。」
と、大きな声で強く言いたい、とずっと思ってきた。
「諦めた」のではなく「明らめた」のだ、と。
真剣に、懸命に、その物事と向き合って
悩んで、考えて、必死に戦って。
その自らの重大な岐路に対する真摯な姿勢の先で
辿り着いた決断が「諦め」であるはずがないのである。
考え悩み抜いたからこそ、
物事の事情・理由が明らかにできたのであり、
頑張り尽くしたがゆえに その決断を手にしたのだから、
心は明るく、晴ればれしているのである。
「明らめた」のに、「諦めた」なんて
言わないでほしい。
と、約10年間 心に抱いていた想いをここに記してみた。
ひとり、ひとりの決断は
それがどんなものであったとしても
きっと明るい方を向いているものなのだと
信じて見守るひとでありたい。
先が見えなくても歩みは止めない。