いじめについて思うこと。
仕事のあいまにふと目にした文章に
涙がぽろぽろでてきて、たまらなくなり…
いまの想いを記しておきたいと思います。
神戸市立小でいじめ被害に遭った男性教諭が代理人弁護士を通じて公表したメッセージは以下の通り。(原文のまま掲載)
子供達へ
急に先生が変わってびっくりしたね。ごめんね。 私は3年連続して同じ子供達を担任してきた。初めは2年生から上がってきた小さい小さい子供達。それが最後は6年生に向かう大きくなった子供達。とても素直な児童で、行事にはまっすぐ一生懸命、学年の仲が良くみんな前向きな児童であった。
「そんな子達が大好きですよ」学級通信を通じて子供のいいところを発信していたが、ほんとに毎日が成長であった。初めは小さな事で喧嘩もありながら、ちゃんと自分で反省し、仲間に優しくできる子達である。
職員室が怖かった分、毎日子供といる時間が幸せでたまらなかった。
「ずっとこの子達と一緒にいたい」そう思える子達だった。クラス全員で誕生日に手紙を本にしたプレゼントを用意してくれる温かい心も持っている。失敗しても「ドンマイ」と声をかけられる思いやりもある。どんな先生やお友達でも同じ目で、平等な目で見られる正義感のある子達である。
運動場で「めんどくさい」とも言わず、クラス全員で遊ぶ無邪気な一面もある。これからもずっとずっと君たちの笑顔は先生の宝物であり、生きがいです。ありがとう。
そして、一つ、、、 先生はよく「いじめられたら誰かに相談しなさい」と言っていましたね。しかし、その先生が助けを求められずに、最後は体調まで崩してしまいました。「ごめんなさい」今の先生だからこそ、お願いです。辛い時、悲しい時自分一人で抱え込まずに、誰かに相談してください。必ず、誰かが手を差し伸べてくれます、助けてくれます。いつか、みんなの前でまた元気になった姿を必ず見せに行きます。その日を夢見て先生も頑張ります。
保護者様へ
いつも温かく迎えてくださって感謝でいっぱいです。「3年目も先生で嬉しいよ」こんな声をかけてくださった方もいて僕の支えとなる言葉です。「先生痩せられたんじゃないですか?」と気にかけてくださる優しい保護者の方達に僕もたくさん支えてもらいました。僕が作った学級通信や子供への手紙を宝物だと言ってくださった経験が今の僕の宝物です。最後に、たくさんご心配やご迷惑をお掛けしてすみません。
数ヶ月前に、長女の前の学校で起きていた「いじめ」を目の当たりにしたとき 私自身、ものすごく難しく感じ、悩みに悩んだことが2点あります。
ひとつは、いま目の前で起こっている事象が「いじめ」なのかどうかの判断の困難さ。
もうひとつは、仮に「いじめ」と認定され解決したとされても、結局は表面的、一時的な解決にすぎないということ。
まずひとつ目について。
前の学校で、長女の隣の席の児童が連日泣くまで主犯格児童数名から嫌がらせを受けていました。
長女は見ていられないし可哀想、助けたい。との思いを抱き、
学校側に対しても主犯格の児童に対しても当該嫌がらせ行為をやめさせるよう働きかけましたが、跳ね除けられ、まったく改善に向かいませんでした。
学校側はいじめに対して「見て見ぬ振り」ではなく「そもそも見ないように努める」姿勢を貫き、
加害児童は加害意識すら欠いているようでした。
そして、いちばん私が理解に苦しんだのは、その他大勢のクラスメイトについてでした。
なぜ目の前で嫌がらせを受けて泣いているクラスメイトがいるのに、見ている「だけで知らんぷり」、自分は「関わらずに平然と」、日常をすごすことができているのか…
連日泣かされ、トイレの個室に逃げ込み、出てこないと「出てこい。」と騒ぎ立てられ、
別のクラスでは嘔吐するまで責め立てた加害児童もいたにもかかわらず、
前の学校の全体的な児童は「日常」を「平然と」過ごしているという状況にどうしても私は理解ができませんでした。
もしかしたら、「いじめ」に見える一連の行為や出来事は実は「いじめ」ではなく、
加害児童と被害児童両者の関係にだけある特別な許容が存在するものなのかしら…
私たちだけ それを知らないだけかしら…とすら思うほどでした。
そうでもしないと私の感覚では到底理解できない状況でした。
仮に なんとか理解を示そうとするならば…
その他大勢の第三者児童たちには目の前で起きていることが「いじめ」である認識がなかった または できなかった…ということくらいでしょうか。
今回の神戸市立小の被害者の方も、被害に遭われるうちに、いつからかこれは「いじり」だと解釈してご自身の心が とにかく酷い現状に なんとか耐えられるようにと 思考の転換をしていた旨の記事を読みましたが、
このような被害者の心に生じる現象も含めて、
周りにいる人間にとって いま目の前で加害者と被害者の間で起きていることが「いじめ」であると判断することの困難さ、
さらには
第三者の側から 声をあげて止めに入ることの難しさを私自身、強く感じました。
「それはいじめだよ。」「いじめはやめなよ。」と第三者である自分が声をあげ止めに入ったものの、
加害者と被害者双方が「何言ってるの?仲良く遊んでふざけてるだけだけど?」って言われやしないか、という不安が強くつきまといます。
そして、ふたつ目についてのお話です。
前の学校では被害児童がスクールカウンセラーに相談し、クラスでいじめアンケートが行われて、長女その他一名の第三者児童がいじめを証言し、ようやくいじめが認定され、クラス全体への注意が行われ、とりあえず当該被害児童への加害行為はなくなりましたが、
またすぐに別の児童への嫌がらせ行為が主犯格児童により再開しました。
そしてまたその他大勢は見て見ぬ振り、知らんぷり、です。
最近、児童に対して「いじめは犯罪に値する行為なのですよ」といった旨の指導が学校などでなされ始めているようですが、
そもそも未成年である対象に「犯罪」などという言葉を使ってその深刻さを伝えようとしても、刑事責任を問われない年齢である以上、
たいしてピンと来ないのも仕方のないことのように思います。
また、今回のように大人同士の「いじめ」という犯罪行為であっても、「いじめ」があった、とはっきりと認定されるまで、「犯罪行為に値する卑劣な行為があった」ときちんと明るみに出るまでの前段階では、
自分は関わらず距離を置く、という選択を周りの人間がすることも非難できないような気がします。
そこで、です。
刑法の基本書を読むたびに考えているのですが…
「不作為」は一定の場合は犯罪(実行行為)になるとのこと。
①法的な作為義務があって、
②作為の可能性、容易性があれば、
不作為も作為による実行行為と同視できる、
というあのお話です。
いじめ、とか、嫌がらせ、とか、あらゆるハラスメントとか。
当人同士の関係性だけでなく、それを目の当たりにしている周りの人間にも 当事者と同じくらいに その不快感や違和感や苦痛を訴えることが
「できる」から「しなくてはならない」くらいにまでレベルを引き上げることはできないのでしょうか。
先程の不作為の話でいうと、(すこし乱暴な言い方になってしまいますが)
いじめ、嫌がらせ、ハラスメントに第三者として直面したときに、声をあげる「義務」がそこに居合わせた周りの人間ある、くらいに
こどもから大人まで、国民ひとりひとりに意識づけをしていくことが出来ないか、と。
そんなことを考えてしまいます。
作為の可能性、容易性、について そのハードルを下げることもまた、
「自分のいる環境で不和があることへの嫌悪感に声をあげるのはよいこと。」という意識づけと、
「声をあげたからといって不利益は受けない」ことが保障されるような、訴える手段や解決手順を確立していくことで叶うとも思うのです。難しいことなのでしょうか…
常にこのような「義務」に近い意識を各個人が持ち続けない限り、
「いじめ」といったものは繰り返され、再発していくものだと感じます。
長々と失礼いたしました。
最後に。
このような事件が起きるたびに「公立」は良くないから「私立」のほうが安心。といった言葉が聞こえてくるのですが、
「公立」の場合は 問題が起きたとき、その性質上 公になりやすく、
「私立」の場合 問題が起きたとき、その性質上 (学校側は「家族」とか「ファミリー」といった表現で口外禁止令を出しますし、自分の子どもが通う学校の評判を下げたくない保護者の心理も手伝って)公になりにくいだけだということに 私自身、その内部に入りはじめて気づきました。
(もちろん、そんなことをしない私立があることもまた事実です。)
流れている情報をそのまま受け取るのではなく、自分の目の前にある事柄の中身をよく見て慎重に判断することは
つくづく大切なことだなぁと自戒の意味を込めてここに記し、終わりとさせていただきます。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
上記の神戸市立小でいじめ被害に遭った男性教諭のメッセージの中にありました言葉、
『辛い時、悲しい時自分一人で抱え込まずに、誰かに相談してください。必ず、誰かが手を差し伸べてくれます、助けてくれます。』という言葉の背景には彼の代理人弁護士の存在も確かにあるように感じました。
私自身。もっと勉強して、ちゃんと法律家になり、いじめ、嫌がらせ、ハラスメントで悲しむひとを減らすことに尽力できたらいいな、
と毎日のように思います。
道のりは長くなりそうですが、がんばります。
「あなたが可哀想だからわたしが助けてあげなくちゃ。」よりも
「わたしが嫌だからあなたを嫌な目に遭わせない。」
の方が 大きく 広く 優しい気がします。