まえをむいて。

2009年にロースクール卒業。 司法試験受験回数0回。 平日は7歳と10歳の子育てをする主婦、 週末は仕事、をしつつ、 予備試験・司法試験合格を目指しています。 いまから、ここから、はじめます。 まえをむいて。

体験や経験を積み重ねていく。

 

「救急車の音が聞こえたら、

親指をかくさないといけない。」

と、友だちから教えられたのは

小学生時代に集団登校をしていたのときのこと。

田舎の言い伝えなのかわからないけれど、

何か不吉なことが我が身に起きることを

防ぐために親指を隠す必要があるのだという。

みんなが知っていたその話を

はじめて聞いた私はとても衝撃を受けた。

 

 

以来、なんとなくピーポーと聞こえたら

ポケットのなかでぎゅっと拳をにぎりしめて

親指を隠すようになった。

 

高校生になり、

仏教校でなにかを感じとったのかもしれない私は

なんとなく…

救急車の音に対して親指を隠すという反応をする、というのは

「ちがうな。」と思うようになった。

 

以来、ピーポーと聞こえたら

指をポキポキ鳴らす雰囲気で

さりげなく両手を胸の前で組み、

「どうか。いま救急車で運ばれている方が

無事でありますように。」

と、心のなかで唱えるようになった。

 

 

それから数年後、

父が救急車で運ばれた。

入院していた病院から

遠く離れた他県のホスピスに移るときのことだった。

父の乗る救急車をみて、

親指を隠すのではなく

誰かひとりでも無事を祈ってくれた方がいてくれたのなら、

それはほんとうに涙が出るほどうれしいことだな、と思った。

と同時に、

自分がそうしてきたこれまでを、よかった…

と心底思った。

 

 

「体験」「経験」とは、

他のいかなる方法によるインプットよりも

優れた情報・知識の習得方法であると思う。

 

 

大学に落ちて、

浪人生として予備校に通うために乗っていた電車で、

晴れて大学生になった同級生と鉢合わせした。

(当時は傷心と恥ずかしさのため、

大学生になった同級生には極力会いたくなかった。)

隣の座席に座った彼女は、

「人生80年だとして、

袋のなかに80粒の豆が入っているものとすると、

その中の一粒の豆、

つまりあなたが浪人生として過ごすこの一年間は、

80粒のたくさんの豆のなかの

ほんのささやかな取るに足らない一年間だよ。

だから、一年間足どめされたからって、

たいしたことないよ。」

と励ましの言葉をもらった。

 

なるほど!ありがとう!

と予備校に着くまでは思っていたけれど

教室に入り着席して、

いや待てよ…あれ?となった。

お前さんは、そのひとつぶの豆粒の一年間を

より有意義に過ごしたくて、

浪人せずに滑り止めの大学に進学してますやーん。

なんじゃそりゃー。と

心のなかでひっくり返ったのだった。

私を励まそうとしてくれた、という想いだけ

ペリッと剥がして心に貼り付けた。

 

私と同じように、浪人していた友人が

ひとあし先に合格した同級生から

「長く助走をとったほうが、より遠くに飛べるから。」

と励ましのメールをもらったけれど、

「いや。そんな長い助走は要らんし。」と

淡々と話していたことも思い出した。

 

 

「体験」「経験」という重しのない言葉や助言は

体裁は整っていて、正しくて美しい見た目をしていても、

吹けば容易に飛んでいく軽さがあるのかもしれない。

 

 

救急車への想いのかけかたにしても、

予期せぬ足止めや挫折の中にある人に対する

想いのかけかたにしても、

それを行う自分自身に、それらに関する

確固たる「経験」「体験」が存在すれば、

自ずと湧き出てくる重みのある反応でもって

接することができると私は思っている。

 

そして、そこに重みがあればあるほど

自分が力添えできるかもしれない目の前にいる

相手方に深く寄り添うことが可能になるものだと信じている。

 

自分が望む自分にまだ到達できていない現状も、

これから突き進んでいかなければならない困難な道のりも、

「体験」「経験」を蓄積しているという

最も優れたインプットは続けていることへの自信と、

それがいつか機が熟した時に、

どこかの誰かに深く寄り添う力になるという願いを持つことができているから、

がんばっていけそうな気がしている。

 

 

f:id:maewomuite:20210625143929j:image

 

 

にほんブログ村 資格ブログへ
にほんブログ村

 

 

にほんブログ村 資格ブログ 司法試験予備試験へ
にほんブログ村