まえをむいて。

2009年にロースクール卒業。司法試験受験回数0回。いまから、ここから、はじめます。まえをむいて。

応援すること、されること。

 

きょうは、長女の運動会だった。

 

だれかを応援することは 思いのほか楽しく、

だれかに応援されることは、とてもしあわせなことだな、と

運動場に響くおおきな歓声や拍手に包みこまれながら 考えていた。

 

 

子どもの頃、陸上や水泳の大会のたびに

自分にかかるプレッシャーに耐えるのに必死で、

観客席にいる親や兄弟をみて、

いいなぁ…わたしもあっち側にいたいなぁ。

と思っていたけれど、

 

応援してもらえる側にいることって、

案外人生のなかでは限られた場面、限られた期間なのかもな、と思ったら、

ちょっとさみしい気持ちになった。

 

 

 

だれかの期待に応えることだけに縛られて

自分の時間と想いをささげることはもうしたくはないけれど、

 

自分が自分の意志でもって喜んで挑んでいることに

それを見ただれかが「がんばれー。」とそっと応援してくれたなら、それは…

そのことだけでじゅうぶん自分の 大切な宝となるのだろうなぁ。

 

 

 

母に「どうしてあなたは、いつも 大変な方の道を選ぶのかしらね。」と

半分しんぱいした、半分あきれた顔で 言われたけれど、

 

もしかしたら 自分は、

応援する側にいることより

される側にいることを 

無意識に望んで選び取っているのかもしれない。

 

 

たまに、自分でも「あれ。なんでこんなに しんどいことを してるんだ ?」と

急に立ち止まって 固まってしまう瞬間もあるけれど、

 

懸命に進むこととか、挑むこととか、

 

とても大変だけど

そういう道にしか落ちていない

《良いもの(だれかに自分を応援してもらうこと、も そのひとつ。)》に出会う喜びを知ってしまっているから、

これまでも、これからも、「そちら側」を自分は選択してしまうのだろうなぁ、と思う。

 

 

 

このごろ、長女が

「わたしの将来の夢は作家さん。

わたしのお母さんの夢は弁護士さんなんだよ。」と、いろいろな方に話しているのを聞くたびに、

すこし恥ずかしく、と同時に すごく嬉しい 気持ちになる。

 

 

結婚を決めるまではずっと、

夢を叶えてから 自分のこどもに会いたいと揺るぎなく考えてきたし、

夢を叶えずに 自分のこどもと向き合っていくことに 相当な覚悟を決めたけれど、

 

夢を叶えるところを わが子の目の前で見せることができたら

もしかしたら、

それがいちばん、自分がほんとうに得たかった 有り難いことかもしれない、

との想いが浮かぶ。

 

 

机に向かう私に向かって

「母。お勉強がんばってー。」と言う

こどもたちの声が聞こえる。

 

がんばるしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

きょう、長女が運動会で 踊っていた曲が

すこし懐かしく そして、とてもよかった。

 

いつも自分たちを応援してくれている父兄の方々へのお返しに、

きょうは児童から応援をさせていただく。

との説明があった。

 

 

以下、歌詞一部引用。

 

 

できっこないをやらなくちゃ』

 

歌:サンボマスター

作詞:山口隆

作曲:山口隆

 

どんなに打ちのめされたって
悲しみに心をまかせちゃだめだよ
君は今 逃げたいっていうけど
それが本音なのかい?
僕にはそうは思えないよ
何も実らなかったなんて 悲しい言葉だよ
心を少しでも不安にさせちゃだめさ
灯りをともそう
あきらめないで どんな時も
君なら出来るんだ どんな事も
今世界にひとつだけの
強い力をみたよ
君ならできない事だって
出来るんだ本当さ ウソじゃないよ
今世界にひとつだけの
強い光をみたよ
イワナビーア君の全て!

 

 

 

 

お弁当の下ごしらえ風景。夜中2時。

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確率とか。倍率とか。

 

「いつ見ても、走っているね。」

と、言われた。

 

学生のころには友達に

「いのししみたいだね。」

と、言われたこともある。

 

 

そう。今日もわたしは走っていた。

 

 

夫と長女を朝6時40分に送り出したあと、

次女を朝8時45分に幼稚園に送り届けた瞬間、

くるりと振り向きながら、さりげなくアキレス腱を伸ばし、よし!と気合をいれて時計を確認。

それから、私は 全力で走って家に戻るのである。

 

一時期バスで自宅まで戻っていたこともあったが、走った方が早かった。

 

ここから、次女のお迎えの時間までが勝負なのだ。

1分1秒でも長く勉強していたくて、

お迎えに向かわなければならないギリギリの時刻まで

机から離れることがどうしてもできない。

 

けれども、私のお迎えを待つ次女にさみしい想いをさせるわけにはいかない。

そうして、また自宅から幼稚園まで

全力で走ってお迎えに向かうわけである。

 

これがこのごろの日常の風景となっている。

 

 

きょうも 相変わらず

大きな木の下を 全速力で走り抜けていたら、

ふぁっさ、ふぁっさ、と大きな鳥が飛び立つ音がしたのと同時に、

こっつーん! 

と、おでこ右上に 痛みを感じた。

 

 

いでっ!

と、思わず声がでて、立ち止まると

自分の頭から 跳ねた何かが足元をころころ

転がっていくのが見えた。

 

まてまてー、と腰をかがめて 追いかけて

ようやくつかまえたら、

どんぐりだった。

 

 

なぁーんだ。と 思ったけれど、

じわじわと、これってすごい確率じゃないのかしら。と なんだか嬉しくなった。

 

物理とかそういった計算があまり得意でないので、ちょっと違う気もするけれど、

『鳥のふんが頭に落ちる確率』で調べたら、

423万分の1、だと書いてあった。

 

 

 

 

 

予備試験の合格者数や、司法試験の合格者数。

倍率とか、合格率とか

試験に関する 数字でいろいろ表されたものを

たまに見かけることがあるけれど、

司法試験合格を目指すひとにとって必要な情報は 

倍率とか、確率とか、そういうことではないような気がしている。

 

 

なぜって、司法試験は

期限を決めてしまうことさえしなければ

ちゃんと正しい方向にむかって

きちんと勉強を積み重ねていくことを続けていけば、

いつかは必ず手が届くものだと

私は思うからである。

 

もし届かなかった、ということがあるのなら、それは、

届く手前で、自身にとって 司法試験に合格することよりも もっと良い選択肢に出会ったのだと思う。

 

 

私がロースクールにいたころは、

新司法試験の受験回数が3回で、

それでだめなら多額の費用と時間をかけてロースクールに入り直すしか道がなかったけれど、

いまは予備試験があるし、受験回数も5回に増えた。

続けていれば、状況なんて案外 ころっと良い方にかわるものだ。

 

 

倍率とか、合格する確率とか、計算したら出るのだろうけれど、

それを知ることで 不安になったり、無理だとおもってしまったり

前向きだった自分の心を 後ろに振り向かせてしまうくらいなら、

 

「いつか かならず 受かる」

 

と自分に語りかけながら 進んでいくほうがいいなぁと思う。

 

423万分の1 だって、案外すぐそこに ころがっているのだから。

 

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参考にさせていただきます。

 

これはだれにも負けないぞ、

というくらい がむしゃらに勉強したのに

あっさり 見事に 負けたことがある。

 

大学受験。

 

高校三年間は 第一志望の大学に現役合格する

ことだけを考えて、自分のすべてを

そこに向けて捧げていた。

 

ほんの少しの休憩時間ですら、食事中でさえ

「この数分間も ライバルは前進しているかもしれない。負けたくない。」

と、まったく気が休まらなかった。

睡眠不足と過労で、慢性疲労になり

起き上がることができなくなった時期もあった。

 

でも、結果はまったくついてこなかった…

必死な努力の先にあった景色のなかにいたのは、

合格掲示板の前で、隣で胴上げされて喜ぶひとたちの声の渦のなかに 呆然と立つ自分の姿だった。

 

 

 

 

原因はかなり時間が経ってからわかった。

アルバイトや仕事で、自分がひとに教える立場になってから ようやく気づくことになった。

 

 

『努力の方向』が間違っていたのだ。

明らかに。はっきりと。誤っていた。

 

 

 

大学受験に向けて私が選択した勉強方法は、

本屋さんの赤本コーナーのほど近くに置いてある第一志望校の『合格体験記』を熟読し、

 

片っ端からそこに書いてある参考書を買い集め、その合格者が「こんなふうにやりました」と書いているとおりのことを 自分もまったく同じようにやる、

という方法だった。

 

現時点での自分の立ち位置を正しく把握し、

到達すべき位置との距離を縮めることを追い求めず、

「合格者がやったことを同じようにやっている自分」であることを追い求めてしまった。

 

たまに、駅伝の中継で うっかりコースを間違えて あさっての方向に勢いよく飛び出しているのに気付かず走り去ってしまう選手がいるけれど、

試験の神様からみた 当時の私は まさにそんなふうに映っていたと思う。

あ、あーぁ…って、見ていたのかしらと思う。

 

 

そんな経験と、その古傷が自分のなかに刻まれていて、いまだに ちくっと痛むときもあるものだから、

試験でうまくいった方のお話などにふれるときには 心のどこかでこう思っている。

 

 

「そのお話。参考にさせていただきます。」

 

 

まずは、自分だけをよく見て、

次に到達したい地点を正しく把握して、

その間を埋める方法で自分がやりたいと思う方法を絞って。

その上で、取り入れることができるものが成功した方のお話のなかに見つけることができたら、それでもよくよく考えてから慎重に取り入れる。

あくまでも「参考に」させていただくよう、

決して「基盤に」しないように、気をつけている。

 

 

そこを目指している者からすると、

成功した方、合格した方は眩く、きらきらしている。

その差している後光に目がくらまぬように。

自分を見失わないように。

 

 

 

 

 

 

長女お気に入りの キーホルダー。

たい焼きなので、おなかを押すと

あんこ がでてくる。

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命綱

 

さっぱりわからなかった。

 

いったい いつになったら、自分は

この毎日ふりかかってくる膨大な量の法律の知識を、自分の懐に秩序をもって納め

適宜、適切に取り出すことができるようになるのか。

 

周りにいる たくさんの優秀なロースクール生たちが、自分には到底できない法律の難しい議論をしている姿を眺めながら、

「ドウシタラ、ソコニ、タドリツケマスカ?」と

日々、こころのなかで つぶやいていた。

 

 

目の前の大量の課題をこなすだけの毎日。

単位をなんとか落とさないように。

問答形式の授業で当たったときに せめて恥をかかないように。

 

こんなことをいつまでも続けていても

結局、彼らには敵わない。自分ではダメなのかもな…との想いがだんだん強くなってきた頃。

「要件事実」という授業が始まった。

 

当時のロースクールには、

優秀な旧司法試験受験生が多く在籍していたのだけれど、彼らにとっても あまり馴染みのない科目だったのだと思う。

他の科目に比べて、とりわけ自分だけ知識量が劣っている、と感じずにすんだからか、わたしは「要件事実」という講義だけは楽しかった。

 

ブロック・ダイアグラム、といって

請求原因やら抗弁や再抗弁やらを順に組み立てて並べる課題がでた。

よくわからないわりに時間のかかる課題だったため、どなたか優秀な学生さんがひとり作成した模範解答のようなものが、生徒の間に出回って みんなそれを基にしたレポートを提出していた。

 

私は自力で課題に取り組むことにした。

なんでかわからないけれど、この課題には誠心誠意取り組んでみたいと思った。

ひとつひとつ、ブロックをつくり、ああでもないこうでもないと組み立てた不恰好なレポートが完成し提出した。

 

数日後、返却されたレポートを見て、涙が出た。

いまの自分のままでいいから、もうすこしだけがんばろう、

と思うことができた。

 

 

レポートを採点していただいた「要件事実」の先生は、現役の裁判官の方だったため

短期で別の場所に移ってしまわれると聞いた。

 

レポートの件が本当にうれしかったので、

「要件事実」の講義が終わってから数ヶ月後、意を決して 先生にお礼を伝えにいくと、

先生は穏やかに私の話を聞いて そして

大丈夫です。

その調子で頑張ってください。

と言ってくださった。

 

 

以来、このレポートはわたしが法律から、司法試験から離れないための 命綱になっている。

 

認めてもらうこと。

そのままの自分で進んでいきなさい、と見守ってもらうこと。

よく頑張っていますよ、と褒めてもらうこと。

 

自分自身に対しても、

自分がそうしてあげることのできる他者に対しても、

たえずそんな優しく強いメッセージを送ることを大切にしたいと思う。

 

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いまここ。

 

来年度の予備試験を受けてみようか…どうしようか…。

という想いが

先月あたりから あたまにひょこひょこ浮かんだり、ふうっと消えたりしている。

 

予備試験の試験日程をホームページで探して

来年のカレンダーで確認する。

 

仕事の日とかぶらないか、とか

こどもたちの学校行事とかぶらないか、

を案じている自分に、

そんなことを気にしているようじゃ

まだまだだなぁ。と思いつつも、

ついにここまで心を連れて来ることができのだなぁ、と感慨深くもなる。

 

 

少し前に、久しぶりに小学生時代からの友達と会って話すことがあった。

 

私は、小学生の卒業文集に「将来弁護士になりたい」と書いていた。

 

彼女とは大学受験の浪人時代、

偶然同じ予備校に通っていたのだけれど、

別々の大学に進学して以降のことは互いにあまり知らなかった。

大学時代以降の身の上話と、

いままた司法試験に向けた勉強をはじめていることを話し終えた私に、彼女は言った。

 

「そうなんやぁ。夢が〇〇(私の名前)ちゃんを追っかけてきてくれたんやなあ。」

 

からだのまんなかあたりが、じんわり 暖かくなる感じがした。

そうだったのか。と、自分でも驚いた。

 

 

今度こそ大切にしなきゃいけないな、と思う。

自分があたため続けてきた目標を。

自分が今、立つことができているこの場所を。

 

いちにち5時間。確実に勉強に集中できる環境があれば…と思うことがある。

いちにちせいぜい2時間、勉強に集中できればおんのじ。これが現実。

 

今の自分が抱えていること全部くるっと

ひとまとめに飲み込んで、

届くところまで手を伸ばしていこうと思う。

 

 

近くのレンタルスペースに、

まるいちにち1000円で自習室として気兼ねなく勉強できる環境ができたらしい。

ああ、使ってみたい。

ロースクールのキャレル(半個室の自分専用の書斎)で昼寝していた 当時の自分の首根っこつかまえて、ちょいと説教したい気持ちになる。

 

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<アガルート進捗状況>

 

総合講義 民法100 終了

総合講義 憲法100 終了

総合講義 刑法100 終了

総合講義 商法100 終了

総合講義 刑訴法100 終了

総合講義 民訴法 100 終了

総合講義 行政法  1割

 

重要問題習得 民法 終了 あとは繰り返し

重要問題習得 憲法  2割

 

 

 

 

離れる。

長女のスイミングの待ち時間は、
アガルートの「論証集の使い方講座」を聴きながら
長女の様子をながめ、ときどき
テキストの内容を確認する、といった過ごし方をしているのだけれど、
きょうは あいにく
レコーダーもイヤホンも 忘れてしまった。

仕方なく 唯一持ってきた 論証集の読み込みをしようと思って 気持ちを切り替えたのだけれど、

右側に座っている お母様方のおしゃべりが
まぁ、とどまることを知らず ことばの洪水状態で
うっかり巻き込まれた私はいま 溺れそうになっている。
というか、勉強を諦めてこれを書いているということは
もう とっくに あらがえなくなっているということだ。

情け無い…


壊れた蛇口から水が噴き出すような おしゃべりが
まだ 続いている。
この調子だと 最後まで、止まりそうにない。


頭が痛くなってきた。





どうしたものかと、
(それこそ本当に頭を抱えて)悩んでいたら ふと思い立った。
朝早く来てせっかく確保した席を離れ、
階段に移動してみたのだ。


パソコンを打って仕事をするひと、

穏やかな表情で本を読むひと、

じっと新聞を読むひと。


静寂。居心地のよさ。


ほんの数歩の世界のちがいで ここまで変わるものか、
と おどろき 喜び、こころのなかで
ぐっと こぶしをにぎりしめ
こみあげてくる笑みをこらえつつ、
階段に腰を下ろした。




学校、職場、習い事、住んでいる場所、親戚…

自分が望んで選びとった場所や人間関係ですら
心が拒絶する場面にでくわすことは 意外によくある。

「自分が選んだことだから。」

「自分以外のみんなは、平気にこなしているから。」

「自分のがんばりが足りないから。」

なぜかそんなふうに、自分の心が、
今いる場所や人間関係からダメージをうけたとき、
その原因を自分自身のなかに求めてしまう。


でも、それはちがう。


そんな場所から、人間関係からは、一刻も早く
できるかぎり遠く 距離をとらなければならない。


雨が降ったら、傘をさす。
傘がないなら、雨が去るまで雨宿りをする。


あれこれ理由を考えたり、
自分を責めたりするのではなく、
とにかく 自分の身と自分の心を守ること。

それが、
自分以外のだれにも迷惑をかけず、傷つけずできる
いちばん有効な方法だと、わたしは 考えている。


そんなことをすると…
なんだかひとりぼっちになりそうで、
自分だけ 変わっているのかな、なんて不安を抱えてしまうこともあるけれど、
意外に、世の中には
そっと傘を差し出してくれるひと、
雨宿りした先に 同じような考えを持ったひとが、
いたりする。


その場に適応することよりも、
自分を保つことを選択するほうが
「あたりまえ」な感覚が広がっていけばいいのになぁ、と思う。


さて。勉強、勉強。


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理想はひとまずそこに置いて。

ひと というものは 「自分」の理想を、
よくもまあ「だれか」にぐいぐいと見境なく押し付けるものだなぁ…と 感じることが このごろよくある。


その有り様は…

「自分」には もう到底成し得ないことであるからこそ、
それを成し得る「だれか」に己の想い(理想)を実現してくれと力づくで託しているようにも見えるし、

「自分」の主義主張の正当性を保つ手段として、
自分にとっての理想を、
「だれか」の想いを破壊する意図でもって 勢いよく ぶつけているようにも見える。


傍目で 理想の圧(もしくは攻撃)を受ける羽目になった「だれか」を気の毒に思いつつ、
わたしは 己の「理想」を「だれか」に押し付けてしまってはいないだろうか、と不安になり あれこれ思い起こしてみる。



あぁ…思い当たる節がある。
かつて、自分の理想で押し潰した「だれか」とは この自分自身であった。

法曹を目指した動機や、
法曹となって成し遂げたい事柄の崇高さ。

法曹としての生き方や、
法曹としての心の強さ。

1日の勉強時間の長さや、
勉強時に維持すべき集中力の高さ。

読むべき基本書の量や、
こなすべき演習問題の数。

日々の、そして将来の、自分の在り方全てを、
自らの思い描く「理想」との距離で評価し、落胆し、
暗く狭いところに 段々と 自分を追い込んでいった。

そして…
司法試験受験生として(将来的に法曹になる者として)、
自分は相応しくないと判断し、
その場所から退いた。

当時の私は、まさに自分の思い描く「理想」に
ぺしゃんこに押し潰され窒息したのだとおもう。









父が死んでしまったこと、こどもを生んだこと。


夫と並んで歩き続けること、こどもを育むこと。



自分が思い描く「理想」なんて、
ほんとうに心底無力で
何の意味もないことを思い知らされる出来事が
次から次へと この身に起きた。
自分のなかから「理想」というものの存在が
しゅるしゅると ちいさくなり消え去ったころ、
ふと思い立ったのである。


「あ。司法試験受けよう。法曹になろう。」


そこには崇高な動機も、思い描く将来の自分の理想像も、まったくなかった。
ただ、単に、よし!やろう。
という想いがあっただけだった。


勉強時間も勉強時の集中力の高さも、
ロースクール時代に合格していったひとたちの勉強風景を目の当たりにしているがゆえに
今の自分には まったく足りていない自覚が
十分過ぎるほどあったけれど、
ま、仕方ないな、とりあえず今できることをやろう、と
淡々としていられた。



自分の思い描く「理想」に引っ張ってもらったからこそ
たどり着けた場所がある。
自分の抱く「理想」に押し潰されて、立ち止まってしまったこともある。

なんだかうまくいかないな…と思ったときは、いったん自分の背負う「理想」を ごそごそとリュックの中から探し出して、
よっこらしょと 足元に置いてみるようにしている。


そうして歩き出したとしても、
自分に必要のないものは 自然と忘れていくものだし、
やっぱり自分にとって大切なものは、
もう手遅れなのではないかというくらい長い時間を経ても、
なんだかんだ手元にひょっこりかえってくるように思うのである。


そして。
ひょっこりかえってきたものを、
私は今度こそ 大切に携えていきたいと思っている。







〈アガルート進捗状況〉

総合講義 民法100 終了
総合講義 憲法100 終了
総合講義 刑法100 終了
総合講義 商法100 終了
総合講義 刑訴法100 2割

重要問題習得 民法 終了 あとは繰り返し
重要問題習得 憲法 2割




こどもたちとの夏休み。
集中して考える時間がなかなか作れないので、とにかく コマ切れでも講義を聴き進める勉強に切り替える。

とくべつ暑い今年の夏は、
日中は室内でお菓子やものづくりをして過ごし、
こどもたちとの外出はなるべく涼しくなる時間帯にすることにしている。

てまひまかけて作ったお菓子やジャムの味。
夏の夕暮れ時の公園を包む やわらかな空気。
こどもたちの心に ちいさく優しく住み着いてくれたらいいな、と願う。


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