まえをむいて。

7年前にロースクール卒業。司法試験受験回数0回。いまから、ここから、はじめます。まえをむいて。

いろいろと調整中

家族を持つ、という選択をし覚悟を決めたときから、「仕事」と「家事・育児」を両天秤にかけ その結果 でてきた 「仕事」:「家事・育児」=0 :100 の結論に基づいて 自分の時間と心を注いできたのだけれど、
2、3年前ごろからは そんな単純な括りではなくなってきた。
「自分が仕事をすることにより得られるプラス面」と「自分が仕事をすることにより家族、特にこどもの心身に与えるマイナス面」とを両天秤にかけて、プラス面が8割を占めるあたりのところをキープするイメージで いろいろな選択をして決めて進めることが いまの自分にとっても、家族にとっても、最善に思えるように 考えが変わってきたのだった。

思い立ったが吉日。まだ長くは歩けない長女をベビーカーに乗せ、ちいさな赤ん坊であった次女を抱っこ紐で抱き、電車とバスではるばる ハローワークに行った。
当時の自分が希望する勤務形態の職場は、ハローワークからしか求人を受け付けていなかったから、仕方がなかった。
ハローワークの警備員さんに 案内していただきながら、建物の奥に進んだ。子連れ狼(しとしとぴっちゃん)状態の自分を 職員を含めその場に居合わせた方々が 思い思いのストーリーをたぶん私に重ねて想像し じっと見ていらっしゃった。あ、場違いとは 今まさに自分が引き起こしている、このことか!…との考えがふわっと頭に浮かんだ。どんなことでも 度が過ぎてしまうと、自分のことが面白おかしく思えてくる。が、やっぱりちょっと 辛かったかもしれない。忘れちゃったな。

そんな思いをして やっと履歴書を送るとこまで辿りついたのに、数日後 希望する職場の担当者さんからいただいた電話であっさり 仕事に就く、という希望が断たれてしまう。
「希望の勤務日は土曜日ということですが、研修が一ヶ月間 平日にありますが、参加は可能でしょうか。」
なんだよそれー。無理じゃーん。笑

あーやっぱり、働き出すのは今の自分にはまだ早いか…と心がしぼしぼになっていたときに、なんとなく探していたら なんとなく気になった職場にあっさり希望の勤務形態で採用されることとなり、今に至っている。
自分の子は 自分の家族の手で育てたい、という考えを どうしても譲ることができない…心配性で完璧主義で柔軟性のない考えだな、と我ながら思うし変えていくべきなのかしら、と度々悩んだりもするのだけれど、いまは まだ心が許可を出してくれない感じである。
だから、いまは自分の仕事は、夫か母にこどもたちを任せられる時にしか入れないことにしている。
また並行して、在宅でできる仕事も開拓してみたりして。不定期に仕事をいただいている。

それでも…最近急に 長女が「お母さん、お仕事にいかないで。お仕事やめてほしい。さみしい。」と訴えるようになった。長女と何度も話し合って、どうしてだろう…と考えてみたけれど、家から出かけて職場に向かう形態の仕事を減らす以外の解決策が見つからなかった。
いまは、外に出る仕事を減らしながら様子をみている最中だけれど、仕事をすることで自分にひいては家族にもたらすプラス面を維持したい思いもあるので、できるなら在宅でできる仕事に少しずつシフトしていけるよう 本気で調整をはじめているところだ。
資格試験の勉強も 来春からはだんだんと比重を増やしていきたかったので、働きに「出る」仕事を減らし 在宅を増やしていけたら、なんやかんや都合が良いのではないか、と 急に起きたこの事態を 前向きに受け止めている。

それにしても履歴書だしたのに ぜんぜん連絡こないのは、どういう意思表示なのかしら。動くに動けない…

経験

「経験、体験に基づく」知識、発言、考え、判断…
ということを 身につけさせたいとの信念がある。
わが子に対しても、自分に対しても。

この夏休みは、あちこちの工場見学にいき、さまざまな職業体験をして、行ける限りの博物館や資料館に行き、たくさん泳ぎ、川で魚のつかみ取りもした。
実物に触れ、感じ、それから 関連する絵本や図鑑を図書館から借りてきて 読んで 理解を深める。
こどもたちについては、それを、きちんと継続できた夏休みだった。よくがんばった。よい夏休みだった。あとすこしだけ残っているけど。



ロースクール時代、弁護士事務所にエクスターンシップで数週間お世話になり、片時も離れず弁護士の仕事を見せていただいたとき、心底 感じたことがあった。

それは、「いまの自分では、この職業に就いても、
決して 自分が納得のいく 良い仕事はできないな。」ということだった。
自分の法曹への想いを、捨てるでもなく、絶つでもなく「冷凍保存」したのは、たぶん このときだと思う。
いますぐには、法曹にはなりたくない。でも、いつか機が熟したときに、なりたい!と思ったらなら、なろう。たぶん、そのときがきたら自分でも わかるはずだから。そのときまでは、人生で 自然に自分が望む経験を できるかぎり全力でしよう…というようなことを心に決めた気がする。


エクスターンでお世話になっている弁護士の先生が、破産の法律相談を受けたとき、
先生のとなりに座っている私を司法修習生か新人弁護士かと勘違いなさった依頼人の方が、情けない…情けない…と涙を浮かべ嘆きながら
「お願いします。どうか助けてください。」と目の前にいらっしゃり深々と頭をお下げになった。

また、
刑事事件の被告人となった方に その家族からの手紙のファックスを弁護士が見せて、それをじっと見つめる被告人の眼差しが 目を逸らしたいくらいに 辛く重く自分にのしかかった。

ほかにも、たくさんの場面で、当時のわたしは思い知ってしまったのだった。

自分には この 目の前の依頼人の方々の心情に、
想像力だけを頼りに、自分の心を同化させる方法でしか近づけない、ということを。
依頼人の状況を 自分の未熟な精神では 到底受け止めきれない、というこを。
そして、たぶんいまの自分で この職業に就いたら、心身ともに疲弊して 数年で自分が潰れるだろう、ということも。


あれから、数年。ひとつ、ひとつ、新しい経験をする度に、頭のどこかで 自分に問い、確認をする作業を無意識に続けてきたように思う。
「いまの自分なら、あの時の依頼人の方々に対して、どう向き合えるだろう。」

いつかはっきりはわからないが、そう遠くはない将来、自分にとっても 依頼人にとっても 「良い」「納得のいく仕事」のできる法曹になれたらいいな、と思う。

そのためには、全力で目の前のことを「経験」していきたい。

基礎

京都に行ってきた。学生時代の大部分を過ごした場所。いまもなお 自分の人生の軸となっている場所。
訪れるたびに、「いま」の自分を「過去」の自分が前に 強く…突き動かしてくれるちからをくれる。
そのとき、そのとき、自分が置かれた場所において 出来うる限りの 想いを伴う行動を、努力を、為尽くすことの価値を強く感じる。それは時間にも運命にも負けない強さをずっと保ち続けるものだから。永きに渡り 思いがけず 自身を支えてくれるのだ。
帰り道、車窓の奥に広がる空を眺めながら 京都で受け取った想いを 自分自分の心に いまいちど 深く刻む。

いま、出来うる限りのことを全力で。
こどもたちにも きちんと伝えていきたい大切なこと。

夏休み期間は、どうやら机に向かう時間が持てないようなので 読みもの として、司法書士行政書士の参考書を読んでみたりしている。自分の基礎知識をもういちど丁寧に積み直していけるような気がしている。
自分が思う「基礎」を あらためて見直す良い機会になった。


こどもたちが食べ切れなかったアイスクリームを
もったいないので、ふたり分 無理して食べたら
お腹が痛くなって しばらく苦しむ。つらかったー。

貫く

なんだか このごろ夜にひとり考えごとをしていると
泣けてくることが続いている。なんだこれは。
ロースクール卒業して間もなく結婚して、自分の望む家庭を築きあげることを選んで。
その道中で、自分のなかで ひとつひとつ つけてきた「折り合い」が いまになって、ぽろぽろと 粉々になって崩れていく感覚。なんでなんだろ。どうした自分。

折り合いをつけて 諦めると、楽になり
心の求めるままに 希望をもつと、苦しくなる。

しばらく こんな感じの自分と付き合っていくことになりそう。仕方がない。このトンネル。じっくり味わおう。

そして…貫こう。今度こそ。




きょうは、大学で行われている 夏休みのこども向けイベントに 家族で参加してきた。
こどもたちが 催しものに参加している間、わたしは大学の図書館で待つことができた。大学の図書館の自習スペースって…なんかもう 久しぶりで懐かしすぎて、学ぶ環境として恵まれすぎていることを いまさら痛感して、感極まって泣けてきた。今の自分にとって、喉から手が出るほど欲しい環境…(涙)
自分も学生時代は 毎日いつでも こんなに すんばらしい環境で自習することが 時間制約なく好きなだけできたのになぁ。ぜっんぜん わかってなかったなぁ。
当時、自分が与えられている環境がいかに恵まれていたのかも その環境がいかに限られた期間だけ与えられるもので 後に取り戻しのきかないものであるのか、も…


「旬」を大切にしたい。

そのときに全力で取り組むことが最適である事物を きちんと見極め とりこぼさずに進んでいきたい。
いまの自分にとっての「旬」は 家庭の基盤を固めることと、なにより こどもたちと 全身全霊をかけ 向き合うことだと考えて日々を積み重ねてきた。あと数年…かな。次女がもう少し成長したら、自分にとっても、こどもたちにとっても 別の「旬」が訪れるのだろう。

そのときどきの 自分にとっての「旬」を 慎重に見極めていきたい。



大きな講義室も 懐かしかった。いつか、また…司法修習で経験できたら、しあわせだなぁ。

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♫ 失敗しない 雨も降らない人生なんて ない
遅刻でもいいから 行こうかな ♫

って、曲がながれてきた。BUMP OF CHICKENの曲。私、ずいぶん遅刻しちゃったな。でも、行こう。

とりあえず。ではなく、できるだけ確実に。

とりあえず。できるとこまで勉強を進めて、例え間に合わなかったとしても 課題をみつけるためにも 受験日までのモチベーションを高める効果を得るためにも 資格試験を受験してみる、
ということが なぜか できない自分がいる。昔はできたのに。
大学生だったかしら。ぜーんぜん、勉強に真面目に取り組めてもいないのに、「とりあえず」資格試験に出願してみたりして。そしたら 試験日に向けてやる気もでてくるかと思っていたのに、結局自分のやる気スイッチを探してるうちに本番がきて、試験中 わからなさすぎて 退屈すぎて試験時間いっぱいまで座って待っていることすらできなくて、退出が許されている最短の時間で さっさと問題用紙一式置いてきて とんずらした経験がある。情けなかったなー。自分が。大学受験にはあんなに全力で向かっていけてたのに、それ以降、てんでダメ子になっちゃってたなぁ。いろいろと見失っていた時期でもあったのだけども。
それからかなぁ… 試験に全力で真剣に時間と心を捧げて取り組んでいる方々と一緒に受験する上で 自分の試験への姿勢に その方々に対して失礼がないようにしなくては!との想いが芽生えて、自分を律すると同時に きつく締め付けてしまうようになってしまったのは。

ロースクールでも、先生や先輩によく言われていたなぁ。どんなに自信がなくても 受け控をしたらダメだ!合格が遠のくぞ!って。

でもなぁ…自分の学力や心情や性格ってやはり自分が一番よくわかっているわけで、がむしゃらに どわぁー!っと勉強して 最低点でもとにかく受かればいいから!えいやっ!と 試験に臨んで行けるひともいるのだろうけど(大学受験を終えるまでは 私自身この思考で突っ走って来たのだけれど)、
それ以降の私のように ある程度 自分のなかで 自身の勉強内容や学力に ちゃんとした達成感と安心感を持てた段階に到達したうえで、いける!という自信が持てていないと、本番 落ち着いて試験に臨んでいけない心の持ち主もいるのではないかしら、と 思うのだなぁ。

そんなわけで。行政書士を今年受けるかどうか悩んでいる。たぶん来年は確実に受験すると思う。
この夏休み期間に確保できた勉強量から考えると、今年は見送ろう、と おそらくいまの自分なら判断するのだろうな。
来春からは 次女も幼稚園に通いだし、確実に勉強時間を確保できるようにはなるはずなので、並行して予備試験の勉強も進めていけたらいいな。

夏休み

夏休み。
この、今年の夏休みはこどもたちにとって一度きり!
それに、こうして わたしが家にいて こどもたちと
ずっと一緒に過ごすことのできる夏休みがいつまで続くのかもわからないから、今 与えられている いちにち、いちにちを こどもたちにとって 実りある日にしよう!と 全力で向き合っていたら、
あれ…自分の勉強をする時間がまったく作れていない。
この夏休みは、もうすこし、自分の勉強時間を確保できると予想していたのになぁ…うーん。

昨日と今日は、仕事が急になくなって少し自由な時間が生まれたので、僅かな時間ながら勉強。やっぱり勉強は楽しいな。思いっきり勉強したい。そしてぐっすり寝たい…(´-`).。oO

夜、家族が寝静まったあと ひとりで夜空をみながら ぼんやり考えていた。
自分のこれまでを振り返っていたら、涙がでてきた。なんだろうなぁ。悔しい、虚しい、とか、焦りとか 諦めとか…ロースクール卒業して すぐに家庭に入ってからの数年間、自分が抱え向き合わざるを得なくなり、戦い乗り越えてきた(というか 折り合いをつけてきた)感情とはちがう、なんともいえない気持ちが身体中にひろがってく感じだった。これは、この感情は 後悔…なのかしら。
これまでの人生、いつも何事にも後悔がないように、と全力で臨んできた。ひとつひとつの選択にも きちんと納得して 進んできた…つもりだったのだけどな。
いまの自分が置かれている状況にも 不満はない。というか、仕方がない と心の底から納得している、できている…つもりなのだけどな。
自分の真意は別のところにしまってあったものが、ひょっこり いまごろ 顔を出してしまったのかなぁ。弱ったなぁ。

選ばなかった方の自分の人生を 具体的に想像してしまうことが このごろ増えている気がする。

ロースクール時代、とても苦労をされ努力なさってご自身の夢に向かって邁進している方が、父を亡くして憔悴している私に「なんでも辛いことがあったら 話してみ」と言ってくださったので、正直にそのとき感じていた自分の辛い気持ちを打ち明けてみたら、
その方の顔がみるみる険しくなり「自分は ほんま ないものねだりやな!」と怒られて、びっくりした。笑

若かりし頃の私は、時間が経つにつれ だんだんと「自分から相手の弱音や愚痴を聞き出しておいて、急に怒るってなんでやねん!」とその方に対する怒りが増してきて、
その出来事以降 心のシャッターを その方に対しては閉店がらがら してしまったのだけど。

自分の選択とは一切関わりのないところで重たい問題を突きつけられてきた その方の人生からすると、私の状況は たとえ大切なひとを予期せず早く失ってしまう経験をしたとしても 「ないものねだり」に感じられたのだろうな、と いまの私は思ったりもする。まぁでも、やっぱり あの言い方はないとおもうけど。笑

いまは弁護士として活躍しているその方に、いまの自分の状況、心情を話したら、間違いなくまた言われるだろうな…

「ほんま、自分は ないものねだりやな。」

ほんと、おっしゃるとおり。

でも。
「手に入れること」ではなく 「手に入れる努力をすること」自体を 私はやっぱり諦めたくはないから。
いまの自分に「ないもの」をねだる気持ちを持ち続けて 必死に手を伸ばして努力をして、いつかちゃんと手に入れて…
ないものねだりから 本当の意味で 抜け出したいと 強く想う自分がいる。

がんばらなくちゃな。

使命感。

手塚治虫記念館に行ってきた。
医師であり、漫画家でもある手塚治虫さん。
その生い立ち、考え、人生の選択の根拠がとても興味深く 夢中になって展示や作品を見た。それでは足りずミュージアムショップで 手塚治虫さんの「ぼくのマンガ人生」という本を買い 1日で読み終える。

人生をかけた努力には、
地位、名誉、お金を求めることに力を尽くす方向と、
自分を何かに役立てようという使命感に従いことを成すため力を尽くす方向と、大きくふたつに分かれるのだな、とやはり感じた。
両方が両立する場合も もしかしたらあるのかもしれないけれど、それはあとから振り返ってみたときに
あ、両立したね、ラッキーだったね。というのであって、当人にとっては 必ずどこかのタイミングで、自分はどちらに向けて人生をかけた努力をするのかを選択というか 覚悟を決めることが 求められるものなのだと思う。

わたしは後者でありたいし、こどもたちも そうあってほしい。
自分の持つものを なにか だれか のために役立てようと明るい使命感をもって為したことは、必ず同じ想いをもつひとが志を受け継いでくれるものだし、その仕事は遥かな時間をこえて輝きをもって存在し続け だれかの光となるものだから。自分が生きた証をそのような形で残せたら…かっこいいなぁ。

それに 地位、名誉、お金って 当人が死んだら そこですべてが終わってしまうわけで…
この類は 次世代に受け継がせて…なんて思ってみても 常にあっけなく一瞬で消え去る恐れを内包しているものだから なんだか虚しい。

使命感をもち、自分の仕事を全うし、質素で心身ともに満たされた生活ができたら しあわせだなぁ。

さー。勉強しよう。




《HIGHER THAN YESTERDAY》
展示されていた、手塚治虫さんが使っていらっしゃった定規に書いてあった言葉を こころに刻む。

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