まえをむいて。

2009年にロースクール卒業。司法試験受験回数0回。いまから、ここから、はじめます。まえをむいて。

0(ぜろ)と100(ひゃく)のあいだ。

 

まるで一度でも失敗して落ちたら終わり、の

綱渡りをしているような日々だった。

 

自分は 98点を取っても、

「どうして2点の失点があったのか。

あなたなら100点をとれるはず。」

と言われて育ってきた。

弟は70点で褒められているのに。

 

大学受験では、

「仮に受かっても行かないから」という理由で

滑り止めは一切受験せず、

本命一校しか出願も受験もしなかった。

 

失敗は許されない、失敗したらすべて終わりだ、という考えの中で生きていた。

一度の失敗が命取りになり二度と取り返しはつかない、という思想をもっていた。

 

 

 

出会ってまだ間もないころ。

喧嘩をしたときに夫に言われて、はっとして

いまでもときどき思い出す言葉がある。

 

 

「君はほんとうに0か100かだね。」

 

 

《司法試験に合格すること》はたぶん

自分の中で長い間持ち続けている目標のひとつで、

いまから約10年前、

その目標から遥か彼方に遠ざかったとき、

それまで司法試験に合格するために

自分が積み重ねてきた時間や努力すべてが「0(ぜろ)」になった。

 

と思っていたけれど、実は違うことを

今の自分は知っている。

 

 

専業主婦をしていたけれど 働いてみようかな、と思い立ち、

いくつかの会社で面接を受けたとき

ロースクール出身でいわゆる三振をした方が面接官だったことがある。もちろん話は弾んだ。ご縁はなかったけれど。

今働いている職場の副社長?(2番目に偉い方)も、

かつて旧司法試験を目指していた方である。

とても優秀で人格的にも素晴らしく尊敬している。

 

 

ロースクールに在籍していたころは、

三振なんて恐怖の館の入り口みたいに思っていたし、

その先になにがあるかなんて怖くて考えることすら避けていたけれど、

なんてことはない。

 

その入り口の前に立たされたときの

絶望感や喪失感、悲しみは到底言葉では表現しきれず書き尽くせないものだけれど、

扉を開けて 涙をふいて、伏せていた視線をふとあげてみると、あっちにも こっちにも

道が放射線状に伸びていてるのである。

もう一度、司法試験を目指す道すらちゃんと足元から伸びている。

 

大丈夫。たいしたことない。

 

手元を見てみると「0(ぜろ)」になったはずの

あれやこれやが そっくりそのまま

ちゃんと残っていてくれているではないの。

なんだ…これまで積み重ねてきた時間も努力もなくなりはしないんだ。

 

30積み重ねてきたのなら、あと70がんばればいい。

60積み重ねてきたのなら、あと40。

90積み重ねてきたのなら、あとちょっと、10がんばる。

 

 

何度失敗しても、

ちょっと落としちゃうことがあったとしても、

もう一度そこから、その続きから

清々しくはじめることを 自分も他者も

優しく受け入れてあげられますように、

と いつも ひそかに願っている。

 

 

f:id:maewomuite:20181112230935j:image

90まで積み重ねてきたひとが、

ちょいと転んでしまったのを見つけると

よってたかって「0(ぜろ)」にしてやろう!

と とことん追い詰めてしまう雰囲気は

とても苦しくていやだなぁ。

お互いに 失敗しても 再びそこから

やり直しができる雰囲気のほうが

うんと幸せだと思うのだけれど。

 

事実 と 評価。

 

 『事実』とそれに対する『評価』を

分けて考えることにしている。

 

誰にでも一目瞭然でありそうな『事実』ですら

時間の経過や 記憶や記録の曖昧さから、

「確かである。」と断定できないこともあるのだから、

その『事実』に対する

個々人の『評価』(柔らかく言うと、受け止め方、とか、印象とか、抱く感情とか。そういうもの。)となれば なおさら、

真実は定まらないものであり、

主張する各々の意見がどれもみな「そのとおり。」なのだと思う。

 

だから…

「その認識は間違っている。」だとか、

「もう忘れなよ。いつまで過去のことを言っているの。」だとか…

そういう事はお互い、ぐっと心のなかにおさめていくしかないのかなぁと思う。

それぞれに、それぞれの『事実』に対する『評価』があるのだから、

きっと、お互いさまなのだろう。

たとえ相手の出した『評価』に納得がいかなくても。

 

 

お互いに《いまだけ》を見ることができたなら、こんな想いをしなくてすむのになぁ、と思う。

「いま」間違えてしまったのなら、

それを認めてすぐ「ごめんね。」と伝え、

相手も「いいよ。」と答える。

こどもたちが、幼稚園で学んでくること。

シンプルなことなのに、大人になるとなぜかそれが難しいようだ。

前だけを向いて行くことでは乗り越えられないものが多すぎるのかしら。

悲しく苦しいけれど、受け入れていくしかないのかなぁ。

 

これは、勉強ではなく自分の周りでいま起きていることを見ていて思うこと。

 

 

 

勉強でも「事実」と「評価」について

ちょいと思うところがある。

 

刑法、刑事訴訟法の問題演習で、

問題文記載の「事実」をひろい、それに

自分の考える「評価」を加えて答案構成をするのだけれど、

たいてい事実に対する「評価」が、自分の場合

模範解答のそれとずれてしまうのだ。

これは試験なので「わたしはそう思う!」

ではいかないわけで…

受かるためには、自分のちょっとずれた感覚を修正していかないとなぁ、と思う。

 

 

f:id:maewomuite:20181111154435j:image

ひとつひとつ、ちがう、という意味で

みんなおんなじなのになぁ。

 

目から。耳から。

 

自分以外のひとの

《物事の習得過程》をはじめて間近で見たのは、

大学受験の浪人生時代に

当時彼氏であった夫と一緒に勉強した時だったと思う。

 

彼は一緒に勉強しているというのに

ぶつぶつ つぶやきながらテキストを読むのである。

「お黙り。」と、内心思いつつ、

もう自分の集中を取り戻すのも難しそうだったし、

なにをぶつぶつ言っているのか興味もあったので、

彼の勉強する様子を観察することにした。

 

まぁとにかく手を動かさない。

数学の計算式くらいしか鉛筆をもって書こうとしない。ただひたすら声に出して読む。

世界史もノートまとめなんてもってのほか。

教科書やテキスト、すべて声を出して読んでは

一区切りして「ふんふん。こうだからこうなって こうなる、と。よし。」

といった感じで、自分の理解を自分に話しかけながら確認して

次へ次へと声を出しながら 読み進めていくのだった。

授業でも先生が話した事柄を 聴いたらすぐに

その場で理解レベルにまで持っていくのである。

 

どうやら彼は、『耳』から物事を習得することに長けているようだ。

 

 

 

 

一方で自分はというと、書く。ひたすら書く。

そして可視化した情報を目で見る のである。

授業で先生がおっしゃっていることも、

聴くだけではまったく頭に入ってこないので、

速記をして話していることを一旦文字に起こして書き留めて、

それを見てはじめて内容を理解する、といった様子である。

そして、思い出すときは目でみた画像として記憶を呼び出す。

ノートやテキストのどこに何が書かれているかも含めて

理解と共に頭に収めるのである。

みんなそうだと思っていたが、少なくとも夫はそうではないらしい。

 

どうやら自分は『目』から物事を習得することを得意とするようである。

 

 

 

司法試験の勉強を再開したとき いちばんに考えたことは、

学生のころは時間があったため、あまり必要性を感じず利用してこなかったけれど、

やはり自分が得意な『目』からに加えて、

『耳』からの情報習得方法も積極的に活用していかなければならないな、

ということであった。

 

 

そこで、学習した範囲の復習として 「理解のまとめ」を

自分で読み上げたものを録音して、移動時間などに聴くことにした。

ただ…自分の声をイヤホンを通して外で聴く というのは 

なんとも言えない恥ずかしさがあり、

(音漏れしていないか、何度もイヤホンを外して確認したり、

電車やバスで混み合っているときは とくに気になって聴けなかった。)

あまり活用できなかった。

 

しかし、いまは、アガルートの講義を

ポータブルプレイヤーで聴くことができるのでとても助かっている。

その日に解いた重問の該当部分をその日のうちに何度も聴き返している。

ほんとうにありがたい。

 

『耳』からの情報の習得方法を積極的に活用することで見つけることができた

自分のなかに埋もれていた多くの時間を大切に使っていきたい。

 f:id:maewomuite:20181109170143j:plain

 お風呂にはいっている時間と、お洗濯をたたんでいる時間だけは、

息抜きタイムと決めてAmazonの本を音読してくれるサービスを利用している。

耳からの情報習得にも慣れてきた気がする。

Audible (オーディブル) 会員登録  

 

寄り添うこと。

 

窓を網戸もせずに全開で勉強していたら、

見たことない大きさの蜂が部屋のなかに入ってきて、ちょっとした騒動になった。ひとりだったけれども。

 

自宅を巨大な蜂がぶんぶんしている状況への

おどろきと恐怖のあまり

訳もなくぴょんぴょん無駄に飛び跳ねながら、

この夏 セミを捕まえた虫取り網を握りしめ

真顔で蜂と対峙した。

 

どうにかこうにか、大きな蜂は部屋から出て行ってくれた。コワカッタ…

 

 

その晩。

帰宅した夫とこどもたちに

きょう起きた蜂騒動について

ふんふん興奮しながら 臨場感たっぷりに伝えた。

わたしが話し終えると、夫は言った。

 

「こわかったねぇ…大変だったでしょう。」

と。

 

予想外の言葉に、すこしおどろくとともに

胸のまんなかあたりで

『ぽっ』と火が灯る感じがした。

 

「だから窓を全開にしちゃだめって言ってるじゃない。」だとか、

「もう。子どもがいるときだったらどうするの。」だとか、

そんなような事を言われると思っていたのに。

 

 

『共感』とか、『相手の気持ちに寄り添う』とか  そういった心の姿勢は

こんなささやかなところで

ちょっとした言葉のなかに

ひょっこり現れるものなのだなぁ…と

じんわりと感じた。

 

 

 

 

勉強をしていて

事例問題をたくさん解いていると

いくつもの判例を読むことになる。

 

「教材」として無心で読み込むようにしているけれど、

ごくまれに…判例に記された事案を

「ほんとうに起きた出来事」として引き寄せて読んでしまい、

そのなかの当事者に想いを馳せて 手が止まることがある。

 

 

どうしてこのようなことが起こってしまったのだろう。

この方は、どんな想いをして裁判をするに至ったのだろう。

この判決が確定したあと、穏やかにすごされているのだろうか。

そうだといいのだけれど…

 

そんなふうに。

 

 

 

願うことは、判例の事案のなかに実在する

辛い思いを抱えていたであろうその当事者の方が

裁判に関わった あらゆるひとの中のどなたかから、

『共感』や『こころに寄り添う』

といった心の手当てを

受け取ってくださっていたらいいなぁ…ということである。

 

法曹は法的解決だけしていればいいわけではないのだなぁ。

 

 

 

 

 

 

f:id:maewomuite:20181108171257j:image

部屋に迷い込んだ蜂。実寸大。

あれはたぶんスズメバチではなかろうか。

ちいさな計画。

 

計画を立てて、それに基づき実行することが大好きだ。

いや…大好きだった。

いまは、計画を立てる時間もなければ、

立てた計画通りに実行できる場所にも居ない。

 

でも、達成したい目標がある以上

自分がいまここで踏みしめていく一歩いっぽを

丁寧で確かなものにしていきたいという願いは

離さずに持ち続けている。

 

そこで、だ。

長期的はもちろん、中期的な計画も今の自分には不必要なので、

ものすごく短期的な「目先」の計画だけを大切にすることにした。

 

朝、家の仕事を終えて

勉強机によっこら座ったらまず、

ちいさなメモ帳に〈きょう すること〉を書き出す。

これを自分の超短期的な「計画」とするのだ。

 

この「ちいさな計画」をたてるとき、

気をつけていることが2つある。

 

*項目をまとめて書かない。

できる限り、分解して 最小単位で書き出す。

例えば、「重問 憲法 5題 する」ではなく、

「重問 憲法 25」「重問 憲法 26」「重問 憲法 27」「重問 憲法 28」「重問 憲法 29」

というように 5問を個々の項目としてToDoリストを作るようにする。

そうすると、ちょこちょこと 多くの回数、

ToDoリストのにチェックを入れることができる。

ひとつ終えるごとに色鉛筆をもち

チェックを書くときの この達成感が

なんともしあわせな気持ちを与えてくれて、

次に向かうやる気へと変わる。

 

*ちょっと少ないかな…くらいの分量にする。

計画を立てるタイミングが、

勉強に取りかかるいちばん気力・体力が充実しているときなので、

ついつい気合十分に自分ができる上限で

ToDoリストの分量を設定してしまいそうになる。

でも…この「ちいさな計画」の目的は、

いちにちの終わりに きょうを振り返りメモ帳をみたときに、

「ToDoリストに書いたこと全ては消化できなかったなぁ…」と

チェックのついていない□を眺めながら

自分をがっかりさせることではなく、

「よし!きょうは全部できたぞ!」と

自分を喜ばせてあげることである。

できれば「よくやった、自分。」と褒めてあげたい。

だから、

ほんとうに今日すべきこと、やりたいこと、として

頭に浮かぶ事項の8割くらいに設定する。

計画もごはんも腹八分目。

 

よくばりなので、まだ

ちょうどよい分量のきょうの「ちいさな計画」を立てられるときと、

そうでないときにバラツキがあるけれど、

「ちいさな計画」→「ちいさなごほうび(□にチェック♫)」

をくりかえしているうちに、

なんだか楽しくなってくるから不思議だ。

 

f:id:maewomuite:20181107152347j:image

これは ちょっとよくばりすぎた日の

「ちいさな計画」。

 

思いたったらすぐ行動。

 

休憩時間にYouTube

海外の主婦の方のハウスキーピング動画(家事スキル日々向上中。)を観ているのだけれど、

そのなかで、お片づけ上手な主婦の方がご自身の日々の行動を支える格言を紹介されていた。

英語だったので、正確かはわからないけれど、ざっくり訳すと…

 

『今』実行する不完全な計画は、

『そのうち』実行する綿密な計画よりも 

 優れている。

 

ということだった。

 

部屋を整理された状態で保つための知恵として、

「あとで」まとめて効率よく片付けようとせず、

気づいた「いますぐに」ちょこちょこ

片付けに取りかかる姿勢が大切であるとおっしゃっていた。

 

 

物事にあたるとき、

とくにその物事が自分にとって重要で真剣に向き合いたい対象であればあるほど、

「とりあえず適当に」「準備が十分に整わないうちに」取りかかることに心理的な抵抗が生じやすい。

やはり「しっかり見通しを立ててから」「用意周到に」取りかかることを望んでしまう。

失敗したくないし、無駄な時間や労力を費やしたくないから。

 

でも、ほんとうは、

拙いながらもとりあえず思い切って実行に移し、

不器用ながらも物事に取りかかるうちに

見えてくるものがあり掴みとるものがあり、

得てくる要領があり…

そんなふうにして、思いのほかスムーズに物事が軌道に乗るものなのかなぁ、

といまはわりと強く信じている。

 

あれこれ計画を考えて立ち止まっているより、

とりあえず思い切って実行に移してみる。

今立っている場所から一歩、二歩、歩みを進めるだけで

視界は変わる。状況も変わる。

 

f:id:maewomuite:20181107070847j:image

購入した本にはさんであった栞。

たぶん私と想いは同じな気がするが、

表記されている 諸々の事柄が鋭利すぎて

ちょっと、うまくのみこめない…

理解 と 暗記。

以前、長女が学校でかけ算を習得する過程をみて、
自分なりに学校側の意図を解釈し、
ただただ感心していたのだけれど↓
maewomuite.hatenablog.com


つい先日、いただいたお便りに以下のようなことが記されていて、
やはりそうだったのか!
と 膝をたたいて重ねて感心したのだった。

*「覚える」に力点が置かれがちな九九だが、
大切なのは、覚えることに加えて、 意味を理解し、計算の仕方を考えることができる、ということである。


* 九九を忘れても、九九を思い出す方法を知っている子に育てていくことを重要と考えている。


* また一方で、計算は「速さ」も重要な要素であるので、九九を覚えることも重視している。


真の意味で物事を習得する、ということは
九九でも数学でも法律でも
根っこの部分は同じなのだな、と確認できた気持ちになり、なんだかスッキリした。


高校時代、
いろいろ学習塾を掛け持ちしていたのだけれどそのなかに《Z会京大マスターコース》という通信型ではない通塾型の教室があった。
たくさんの、そして いろいろな学部の京大生が
チューターさんとして教室に常駐していて
講義とは別に、
自習していてわからないことを持っていくと教えてくださるシステムになっていた。

高校の定期テスト前などはとくに、
このチューターさんにテスト範囲のわからないところ、理解が不十分なところについて
教えを請いにいくわけだが、
京大の工学部の方に
習いたての[三角関数]の問題について質問しにいったとき、
このようなアドバイスをいただいた。

「こんなのは覚えなくても大丈夫。
ぜんぶ導き出せるから。」
といって、
さささーっと三角形やら円やらの図を書いて
全ての三角関数の公式を導き出して見せてくださった。

これはすごい!と感動したわたしは、
公式をがんばって暗記している友達を横目に
「私は公式覚えなくても、導き出せるもんね♬」とちょっと得意げな気持ちで
何度も公式の導き出し方を確認して
数学の試験にのぞんだ


うん。自分史上 見たことない点数だった。
追試、というのも初めて受けた。
そのくらい悪い結果だった。

理由は明らか。
試験時間中に三角関数の公式をいちいち導き出していたら、試験時間が終わってしまったのだ。



暗記 大事。



[暗記]からはじめて
知識の増加や深まりとともに
[理解]に至る習得方法も、

まずは[理解]してから
知識の確認として仕上げの位置付けとして[暗記]する習得方法も、

どちらでもたぶん大差はなくて
大切なのは[理解]と[暗記]の両輪なのだと
いまは思っている。

こう考えると、【論証パターン】というのも
[理解]と[暗記]の両輪を兼ね備えたものであれば
とても有用なのだろうなぁ。




毎週行われる
長女の漢字テストの単語カード作りに励む。

暗記も大事。