まだ見えていないもの。
邦画がすきである。
なかでもすぐそこにある日常を
ゆるやかな時間のながれをそのままに映しだす
やさしい雰囲気をまとったものがすきである。
たいていは
映画監督さんや、ものがたりの内容で
観る邦画をえらぶのだけれど、
出演なさっている役者さんでえらぶこともある。
樹木希林さんは自分にとっては
すきな映画の目印となる役者さんである。
何年か前に観た樹木希林さん出演の邦画で
深くこころに刻まれている作品がある。
《あん》である。
この作品を観た当時、自分は
これから先 自分が思い描くような形では もう
社会や世の中の方々と関わり合いをもつことが
叶わないくらい遠い場所まで
離れてきてしまったような 沈んだ気持ちを抱えていた。
その場所に至るまでに重ねてきた
個々の自分の選択に 後悔はないのだけれど、
でも目の前の現実が ただ ただ もどかしく
どうにも 自分が望む方向には 現実を変えていけそうにない…
という、ちいさな灰色の箱のなかで 膝を抱えているような状況だった。
作品のなかで樹木希林さんの尊い表現から
伝えられた言葉により
自分の灰色のちいさな箱は涙でとけて消えたのだった。
何度も映画をとめながら
手帳に書き留めた 樹木希林さんのその言葉が
これである。
あんをたいているときのわたしは
いつも小豆の言葉に耳を澄ましていました
それは小豆が見てきた
雨の音や 晴れの日を 想像することです
どんな風に吹かれて
小豆がここまでやって来たのか
旅の話を聞いてあげること
そう 聞くんです
この世にあるものすべて
言葉を持っていることを わたしは信じています
陽射しや風に対してでさえ
耳を澄ますことができるのではないかと思うのです
こちらに非はないつもりで生きていても
世間の無理解に押しつぶされてしまうことはあります
知恵を働かさなければ いけない時もあります
わたしたちは この世を見るために 聞くために生まれてきた
だとすれば 何かになれなくても
わたしたちは わたしたちには
生きる意味があるのよ
もうひとつ。
自分がこれから進もうとする場所にいるあいだ
心の中から落としてはならないことを
手で握り 確かめるような感覚を得たのである。
自分が向き合っているひと・ものが
これまで経験し携えてきた あらゆることを
想像力という優しさの光をあてて 見つめて…
そして 見えてきた言葉たちを こぼさず
『耳を澄まして聞く』ということである。
単に音として『聞く』というよりは、
これまでの 相手の歩んできた時間すべてを
『包み込むように 受け止める』という感覚である。
この…見えないものを見つめ その言葉を聞き
受け取るための 風呂敷を
自分のなかで 常に広げて敷いておけるよう
心を律して生きていきたいと思っている。
ひと・もの すべての存在にとって
『聞いて』もらうことが
なによりも有り難いこと である気がしている。